ヤンタラジロー記事:ロータス(蓮)の目覚め - 悟りへの道
ヤンタラジロー

ロータス(蓮)の目覚め - 悟りへの道 ヤンタラジロー著
蓮の花は、昔から聖者、詩人、そして探究者の心を奪うそんざいです。それは単に美しい花が咲くというだけでなく、変容の本質を明らかにするもの、執着しないこと、そして目覚めを表す、生きているお経(スートラ)です。その生涯のあらゆる段階で、われわれの本質についてささやきます。暗闇のなかでも光が見つかるということ、苦しみから解放が生まれること、そしてそれぞれの魂が花が咲く運命にあるということ。
仏教の世界、チベットから日本、インドから東南アジアまで、蓮は悟りを表す神聖なシンボルとみなされています。お経、瞑想、そして仏画にもそのそんざいが感じられ、ディバインへ還る道を映す鏡のようです。
蓮のいのちのサイクルを観察すると、われわれのスピリチュアルな実践の強力な模範、鏡を得ることができます。この鏡を通して、日常的な習慣を振り返り、より深い感情的、精神的な粘り強さを育むことが可能です。
蓮はさまざ まな文化で表れるシンボルで、常に神聖な、ディバインとつながっています。
パドマサンバヴァ(グルリンポチェ)、チベットの二人目の仏、すべてのグルのグルは蓮の花から8歳の子供の姿として表れたとされ、この世の誕生に無縁で、すでに叡智で輝いていたとされている。
ホワイトターラ(白多羅菩薩)長生きと癒しの母。図象では二つの蓮の花を持ち、片手は満開、もう一方はつぼみを持ち、完全なる悟り、そして将来的な目覚めを表しています。
摩耶夫人(マーヤー女王)サッダルマ・ゴーダマ(仏様)の生母、六牙白象がその鼻で蓮の 花を持ってる天空から降りてきて、子宮に入る夢を見ています。偉大なる命を授かったことを表し、精神的な悟りにおいて並外れた可能性を秘めた存在を身籠ることを表しています。
破滅の時代でさえも、蓮は生き残りました。化石によると、1億2千万年前から存在する予測され、目覚めが時空を越えることを示唆しています。
表面の下 - サムサラの泥 -
蓮は水面下深いところ、泥に根を降ろし、その人生を始めます。この泥は、豊かでありながらも重く(濃いもので)、人間が経験する困難と苦しみを表します。サムサラはサンスクリット語で、永遠に続く輪廻転生、誕生、死、再生を意味しています。
蓮が泥に根付くのは偶然ではありません。わたしたちの意識はカルマ的な条件や感情的な残留物で形成され、この世界に入ります。同じように蓮は暗闇からいのちがはじまります。ですが、この泥はネガティブなものでも、避けるものでもありません。わたしたちの目覚めのための肥えた土壌です。仏教の伝説によると、赤ちゃんだった仏様は、生まれた直後、七歩歩いたとされ、その足跡に蓮の花が七つ現れたとされます。
池 - マインド(精神)と感情の浄化
泥から押し出てきて、上へ上へと水の中へと押し上げてくる蓮。水は、感情、記憶、そして無意識の思考の世界(リアルム)です。プラクティショナーが欲望、執着、恐怖、そして負の感情に直面する場です。ですが、対極的に、水はスティルネス(静寂)、集合体、溶けたエゴ、そして個のアイデンディティの無を表しています。
蓮はこれを静かに泥の中でナビゲートします。泥を飲まずに。泥水を通り抜け、そのなかの混乱を吸収しません。厚みのある蝋を塗ったような葉っぱは不純なものすべてを弾き返します。同じように目覚めたマインドは、世に影響を受けずに浮かび上がることができ、執着しないこと、慈悲と叡智を持って生きることを実践します。
「蓮は泥の中に生まれ、泥の中で育ち、泥の汚れに染まらず、蓮のように、私はこの世に生まれながら、この世で育ち、この世を乗り越えて、この世の汚れに染まらず生きていく」という仏教の教え
茎 - 実践の柱
蓮の茎は細いですが、強く、さまざまな経験の層を貫いて上へ伸びていきます。そして下の泥と上の光を結びます。わたしたちの人生では、変容を支える精神の規律を表し、瞑想、呼吸法、学び、優しさ、そして正しい言葉で話す、正しいマインド、正しい行動の実践を指しています。
それは一貫性のある道がなければなりません。願望と実現の間をつなぐ、橋はありません。茎は静かに粘り強く成長するように、わたしたちの実践も忍耐強く、献身性を持って、原則という揺るぎない精神性の基盤を持って導かれないといけません。
花が咲く - 目覚めの段階
蓮のつぼみは泥水から顔をだし、ゆっくりと時間をかけて開いて、咲いていきます。閉じたつぼみは、「目覚めの前」を表します。グルパドマサンバヴァ、蓮から生まれたマスター、グルのグル(師匠たちの師匠)、グルリンポチェは、わたしにビジョンを見せました。閉じた蓮のつぼみ、次に突然開き、ひとつの花びらが広がり、宇宙・ユニバースにも伝わるほどの深い響き渡る音 - これは目覚めの始まりを表します。
半開きの蓮は完全な目覚めの途中を表し、数えきれないほどの転生、気づき、そして内なる変容を表します。本来の自分に神聖なプロセスを反映しており、真実が徐々に明らかになり、悟りの中心が通常の視界のすぐその向こうにあります。
完全に開いている蓮の花は完全な悟りを表す輝かしいシンボル、純粋なアウェアネス(意完全に開いている蓮の花は完全な悟りを表す輝かしいシンボル、幻想の向こうで純粋なアウェアネス(意識)が咲きます。神聖な歴史では、蓮のなかには千以上の花びらを持つものが咲いたと記録されており、目覚めの意識の境目がない本質を表しています。
チベットのマントラOM MANI PADME HUMは、観世音菩薩(チベット名:チェンレジグ、サンクリット: Avalokiteshvara Boddhi Sattvaアヴァローキテーシュヴァラ菩薩、または一般的には観音菩薩として知られる)を召喚するマントラで、無限の慈悲を司る菩薩様です。これは内なる蓮を目覚めさせる神聖な呼びかけです。
観世音菩薩の「観」は観察、あるいは深く洞察するという意味を持ち、「世音」は世の音、たとえばすべての生きとし生けるものの苦しみの声や祈りの声を指します。菩薩様は、これらの音を聞き、衆生の苦しみを感知し、救いの手を差し伸べます。観音様は音を観察することによって、悟りを得て、観音の称号を授かりました。
種子の莢(さや) - 再誕生と恩返し
完全に目覚めたそんざいは種子のさやのようになります、自由に与え続け、認められる必要はなく、そのもののそんざいの果実が他のものの心の中で花咲くことを知っています。今日ではないかもしれない。今世ではないかもしれない。しかし、必ず。人生から人生へと、叡智の種が受け継がれていきます。この静かなサイクルが、奉仕の道を表す比喩でもあり、自分のためだけに目覚めるのではなく、すべてのそんざいの解放のためのものであると。本当の蓮は、孤立して咲くことはありません。慈悲の種、洞察の種、記憶の種を残し、その後に続くものの道を祝福します。
夢の目覚め - 蓮の花が咲く
あなたは成長中の蓮です。無限の時間と場所のサイクルのなかで現れ、その向こうへと目覚める、そして天へ昇る。時が来れば、あなたの霊性が成熟する神聖なタイミングで、あなたの先人の数えきれないほどの目覚めた人たちのように、最初の蓮の花びらが咲くでしょう。長い幻想の夢から目覚め、分離のヴェールを超え、本来のあなたという本質に還る、「目覚めた悟り を開いた者」として。
輝く 無限な 自由 ヤンタラジロー
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9月3日 受付を締め切ります (それ以降は、飛行機・ホテルの空き状況に応じ受け付けます。その都度確認します)